千葉県(銚子市)・猿田神社
20200104
ここは三度目だと思う。銚子で一番大きな神社じゃないかな。駐車場が近い横から入った(笑)日本って凄いよね。土地土地の由緒とか、たとえ歴史を勝者が書き換えたとしてもそこに神社はあるわけで。
日本って凄いよね。土地土地の由緒とか、たとえ歴史を勝者が書き換えたとしてもそこに神社はあるわけで。まあ、壱岐の神社庁登録150って(笑)長崎県の古墳の6割壱岐だ
二拝二拍一拝
基本情報
所在地:〒288-0855 千葉県銚子市猿田町1677祭
電話:0479-33-036
【
official site】
猿田神社
猿田神社(さるだじんじゃ)は、千葉県銚子市猿田町にある神社。古くから八方除けなどで信仰されている。猿田彦大神・天鈿女命・菊理媛命を主祭神とする。
由緒
社伝によれば、垂仁天皇25年11月25日の創建とされ、神功皇后の御世に生田神社の摂社になったという。大同2年(807年)に社殿を造営、康平年間(1058年 - 1065年)には源頼義が神田を寄進し、鎌倉時代以降も武家の信仰が篤く源頼朝も寄進したと伝えられ、足利晴氏は金印を奉納をし当時のものという印が現存する。
永禄9年(1566年)海上氏と安房正木氏との合戦で社殿を焼失、元亀年間に再建するも天正元年(1573年)に再び焼失、翌天正2年(1574年)に再建し、現本殿は延宝8年(1680年)に改築されたものである。なお、天正19年(1591年)には徳川家康も朱印地30石を寄進した。
庚申の年(60年ごと)に式年大祭神幸祭がある。
文化財
猿田神社本殿附棟札1枚(千葉県指定有形文化財)
猿田神社の森(千葉県指定天然記念物)
交通
総武本線猿田駅下車徒歩5分
国道126号旭市網戸または国道356号銚子市野尻町より、千葉県道71号銚子旭線
その他
参道に先神橋というJR総武本線をまたぐ橋がある。これは、1897年(明治30年)総武鉄道が銚子まで開通したときに参道を分断してしまうことになったため鉄道会社により造られたものである。
神仏習合の名残で、仏滅(六曜#仏滅)の日は社務所が休みとなる。
銚子市
銚子市(ちょうしし、英:Choshi City)は、関東地方最東端、千葉県北東部の海匝地域にある全国屈指の漁港町、及び観光都市である。
古くは東北からの東廻海運の港ととして栄え、日本一の水揚げ量を誇る銚子漁港(特定第3種漁港)[1]を始め、「最上醤油」の銘柄を持つ醤油醸造を中心に、味噌、味醂、水産業、流通業等が盛んで、江戸に運ぶ利根海運の交易都市として発展。市全域で銚子ジオパークをなし、景勝地が豊富な海岸線は水郷筑波国定公園に指定され、数多くの文豪も訪れる文豪の地として親しまれてきた観光都市となっている。
地理
東京都心から100km圏内、関東平野の最東端に位置し、市の北部には利根川が流れており、銚子市で太平洋に注ぐ。北は利根川、東と南は太平洋に面する。江戸時代に利根川水運が開発され、醤油醸造業と漁業で発展。農業は露地野菜を中心に発展した観光都市。
利根川河口と銚子市街地
銚子市は、利根川沿いの低地と北総台地からなり、表層は関東ローム層に覆われている。愛宕山(標高73.6m)は北総台地最高峰。水田は台地山間の谷津田と利根川沿いに広がっており、畑地帯は台地の平坦部に位置し、比較的農業に適している。
市域
広袤(こうぼう):東西16.2km、南北12.8km
自然
川:利根川(利根川が太平洋に注ぐ河口である)
気候
周囲が海に囲まれているため海洋性気候となっている。すなわち、湿度は高めであり、気温は年間平均気温が約15℃で夏涼しく冬暖かいといわれる。
夏場は、関東平野部の都市では珍しく日中でも30℃を超えることは少なく、35℃を超えることはめったにない。熱帯夜になることもあまり無く、関東屈指の避暑地と言える。一方、冬場は南九州並みに温暖で気温が氷点下になることはほとんどなく、雪が降ることは非常に珍しい。
またトマト、メロン、スイカ、イチゴなど海洋性気候に適した野菜や果物が栽培されている。
また、年間を通して比較的風が強く、風力発電所の風車が34基稼働している。
隣接する自治体
千葉県
旭市
香取郡東庄町
茨城県
神栖市
歴史
地名の由来
入り口が狭く中に入るとより広い空間が広がる「銚子口」と呼ばれた地形。
2012年撮影の18枚を合成作成。
元は「銚子口」と呼ばれていた。「銚」は、小さな注ぎ口を持つ酒器で、もともとは生薬を煎じるのに使われた土瓶ややかんの類入り口が狭く、中に入るとより広い空間が拡がる地形がよく似ているため、この地名がついたとされる。「銚子」が行政区画名として町名に使われたのは、1889年(明治22年)4月1日「市制町村制」が施行されてからである。
銚子漁港
銚子醤油初代社長・浜口吉兵衛
現在、銚子漁港は日本随一の水揚量を誇る漁港となっているが、かつては日本の三大海難所の一つに数えられた所であった。利根川の河口付近に千人塚(銚子市川口町2丁目)が築かれており、銚子近辺で起きた海難事故の犠牲者が祀られている。「千人塚」という名前の由来は、「1616年(慶長19年)10月25日銚子沖に吹いた突風によって、千人以上が亡くなったため」とも、「祀られる犠牲者が増え続けた結果、いつしか千人塚と呼ばれるようになった」とも伝わる[5]。昔の利根川河口付近は川幅が狭く、川底には大きな岩があり水深が浅く、干潮時と満潮時の潮の流れは急で、一年中風が強く吹き波が荒い場所であった。1910年(明治43年)3月12日には、漁船80隻、漁民千人以上が遭難した。当時の船頭歌で「阿波の鳴門か銚子の川口、伊良湖渡合が恐ろしや」などと諷されていた。
何度も遭難が繰り返される中、銚子の町人や漁民らの間から河口を広げ水深を深くし、安心安全な漁港を造って欲しいという要望が上がり、銚子醤油株式会社(現:ヒゲタ醤油)社長の濱口吉兵衛[6]を千葉県水産株式会社取締役社長に抜擢し、安全な港に修築できるように、県や国に訴えて貰うことにする。以後、県や国が調査し、川底の爆破をし水深を深くすることを試みるものの、かえって流れが急になり、やむなく中止。また、救助砲(救助ロープを打ち出す砲台)を設置したものの、いざ使用してみると、船まで届かず全く意味を成さなかった。
以後、吉兵衛は悩み、漁民を危険な状況から救うため、また、国へこの実情を訴えるために国会議員になる決意をする。その後、国会議員となった吉兵衛は、千葉県議会議員であった小野田周斎と共に銚子漁港改修に全力を注ぎ、銚子港修築案がついに国会を通過、国からの援助を得ることが決まった。1925年(大正14年)12月修築工事が始められ、1932年(昭和7年)11月竣工した。
1937年(昭和12年)に吉兵衛の功績を讃え、新生河岸公園に銅像が建立されたが、1943年(昭和18年)の戦時中に金属類回収令で軍事供出された。その後、1955年(昭和30年)に吉兵衛の銅像は再建された。
地域
人口
銚子市はかつて、千葉市に次いで県内2番目に市政施行するなど、港町として活況を誇っていたが、現在、人口減少率は県内3位となっており、近年の少子高齢化を反映している。かつては、東総地域の中心的都市としての役割を担っていたが、現在、近隣の旭市や茨城県神栖市などに雇用口や商圏などが移り、市内の活気は薄れ、観光や水産業などの面でも頭打ちの状態が続いている。近年では福祉などにおけるサービス格差が神栖市と離れており、財政難(千葉科学大学への77億5千万円もの補助金や銚子市立高校建設費62億7400万円などが重くのしかかっている)から、利根川対岸にある神栖市並みか神栖市以上のサービス向上を図れず、半島特有の後背地の少なさ、交通の便の悪さなども起因して今後も人口減少が進むと見られている。県の試算では、2000年から2030年までの間の人口減少率は -29,490人の -37.5%となり、県内1位の減少率となることが推測されている[13]。ただし、2015年度の財政力指数が0.58であり現時点では過疎地域には指定されていない。利根川を挟んで対岸の茨城県神栖市への通勤率は10.7%(平成22年国勢調査)。