トップ  > 神社仏閣  > 福岡県(福岡市)・三宅地禄神社

福岡県(福岡市)・三宅地禄神社

福岡県(福岡市)・三宅地禄神社
20221119
 
久々の神社参拝
「地録神社前」というバス停の名前を小学校の頃から何度聞いただろうか。
35年かけて初めて来た。
健康回復、体力増進、体が資本です。

感謝

二拝二拍一拝
 
三宅地禄神社
 
 
基本情報
所在地:〒815-0033 福岡県福岡市南区大橋4-8-23



Official site
 
【社名】 地禄神社 
【所在地】 福岡市大字三宅字天神ノ前
【祭神】 埴安命
【由緒】 不詳、昭和十三年三月二十二日村社に定めらる。
【例祭日】 十月十三日
【神饌幣帛料供進指定】 昭和十三年五月二十八日
【主なる建造物】 本殿、渡殿、拝殿
【境内坪数】 五百四坪(官有地第一種)
【氏子区域及戸数】 東大橋、西大橋、天神前
 
 

 

 

 

 

【福岡県福岡市の概要】

福岡市
福岡市(ふくおかし)は、福岡県西部に位置する市。福岡県の県庁所在地であり、政令指定都市である。

近畿地方以西の西日本では2番目、東京23区を除いた全国の市でも横浜市、大阪市、名古屋市、札幌市に次ぐ5番目の人口(約162万人)を擁し、九州地方の行政・経済・交通の中心地として同地方最大の人口を有する。

概要
博多湾に面するこの地域は古来から博多(はかた)として認識されており、大陸方面への玄関口として利用されてきた。中世に商人による自治都市が形成され、戦乱で度々焼き払われながらも、豊かな町人文化を育んだ。豊臣秀吉の手で復興されたのち、黒田氏が福岡城とその城下町を築いたことで、那珂川を境に西が城下町としての「福岡」、東が中世からの商人町・商業都市としての「博多」となった。その後、江戸時代から明治時代初頭にかけて、福岡と博多は共存していたが、1876年に福岡と博多は1つの都市へと統合され「福博(ふくはく)」となり、その後、「福岡」と改称された。

九州地方の行政・経済・交通の中心地であり同地方最大の人口を有し、西日本においても大阪市に次ぐ人口を擁する都市である。同市を中心として福岡都市圏を形成しが多数立地しており、典型的な支店経済都市である。札幌市、仙台市、広島市とともに地方中枢都市としての役割を担っている。また、14の大学や9の短期大学が立地する全国有数の「学生の街」であり、人口に占める学生の割合は政令指定都市の中では京都市に次ぐ第2位である。

明治維新の近代初期は現在のように九州地方で最大の都市では無かった(都道府県庁所在地と政令指定都市の人口順位を参照)。当時、九州地方最大の都市は長崎市・鹿児島市であり、九州地方を統括する中央の出先機関は熊本市に置かれるなど、九州地方における福岡県および福岡市の重要性は低かった。1899年博多港開港、1911年九州帝国大学(現在の九州大学の前身)設置に端を発して発展が進み、徐々に九州地方の中枢として位置づけられるようになった。1910年代に熊本市の人口を抜き九州地方最大となる。1920年の人口統計では熊本県の人口の2倍を超えている。また、この時期から九州を統括する中央の出先機関は福岡市に移行している。1963年に、五市合併で北九州市が発足すると同市の人口が九州地方最大となり、北九州市が九州で初めて政令指定都市に指定された。その後、昭和後期の日本における炭鉱の相次ぐ閉山・第三次産業の急速な発達などの産業構造の転換と、政令市指定・山陽新幹線博多駅延伸などを経て、1979年に再び北九州市を抜いて、福岡市の人口が九州地方最大となった。2010年以降、福岡市は人口増加数、増加率とも政令市の中で最も高く、現在もなお年間1万人を超えるペースで増加傾向にある。2011年には京都市を、2015年には神戸市を抜き、全国でも5番目に人口が多い市となった。2020年5月には、人口が160万人を突破した。

玄界灘の壱岐や対馬をはさんで大韓民国(韓国)があり、同国南部の主要都市である釜山までは福岡市から直線距離で200km程度である。また、中国の上海市までは同様に850km程度といずれも東京より近い。これらの事例のように、近隣諸国の主要都市がおおむね1,000km圏内に存在しているため、博多港、福岡空港から韓国や中国、台湾などのほか東南アジアの主要都市への国際航路が多く設定されており、これらの地域からの観光客が増加傾向にある。

日本の森記念財団が2019年に発表した「世界の都市総合力ランキング」では世界42位、国内では東京・大阪に次ぐ3位に評価された。福岡が評価対象になった理由に「居住」「環境」の分野で世界のTOP30に入ったことが挙げられている。また、その国内版とも言える「都市特性評価」では京都市に次いで国内2位に評価された。福岡市は国内でも非常に郷土愛の強い街ともされ、三菱UFJリサーチ&コンサルティングが行った意識調査では、全国の主要都市の中で福岡市民の愛着度・誇り度はともに全国首位であった。

グローバル創業・雇用創出特区として、北九州市とともに国家戦略特別区域に指定されている。また、福岡市で開催される国際会議数は、東京に次いで国内2位であり、北九州市とともに国際会議観光都市にも指定されている。

福岡市の都心は、天神と博多の両極がある(それぞれ江戸時代の福岡と博多に相当する)。天神地区は福岡市役所と西鉄福岡(天神)駅・福岡市地下鉄天神駅のほか、多数の百貨店やファッションビルが集積する九州最大の繁華街である。博多には九州最大のターミナル駅である博多駅があり、多数の新幹線や特急列車が九州各都市を結んでいる。また福岡空港も地下鉄で数分と至近距離であるため、博多駅周辺は大企業の支社が集積するビジネス街となっている。天神と博多を隔てる那珂川の中州に形成された歓楽街は、中洲(なかす)として全国的に有名である。中洲は西日本一の歓楽街とされ、東京の新宿・歌舞伎町、札幌・すすきのと並んで、日本三大歓楽街の一つとされる。天神・博多・中洲・長浜などで夜間に常設される屋台の数は日本一 で、屋台目当ての観光客も多い。1995年には大型複合商業施設キャナルシティ博多が中洲の東側に開業、2011年には九州新幹線博多延伸に伴い博多駅に複合商業施設JR博多シティ(アミュプラザ博多、博多阪急)、2016年にはKITTE博多(博多マルイ)が開業した。もともとビジネス街だった博多駅周辺の商業施設の集積が進んでおり、天神地区との商業地競争が激化している(「天神流通戦争」も参照)。福岡都心の地価は年々上昇傾向にあり、天神木村屋ビルで1㎡あたり620万円、博多駅東(博多駅筑紫口)が1㎡あたり388万円と東京の一等地と比べても見劣りしない価格であり、東京都中央区東銀座の平均地価を上回っている。ただし、福岡空港が中心市街地と近接している関係で市内中心部には航空法上の高さ制限が設定されており、天神や博多駅周辺には超高層ビルがほとんど存在しない。天神・大名地区は高さ制限を緩和して民間のビルの建て替えを行う再開発計画「天神ビッグバン」が進行中である。

福岡市の主な副都心としては、西新と香椎が挙げられる。両者の周辺には高校や大学、専門学校が多数存在するほか、ウォーターフロント開発地区として、西新の北にはシーサイドももちが、香椎の西にはアイランドシティが隣接している。特にシーサイドももちには、福岡PayPayドーム・福岡市総合図書館・福岡市博物館・報道各社といった文化・エンターテインメント施設が集積している。天神や博多などの福岡都心は福岡空港に近く超高層ビルが建てられないが、福岡市内の高さ100m以上の建造物の殆どが(比較的高さ規制の緩い)この両副都心の近辺にある。この両副都心ほど大規模ではないが他に福岡市の副都心として挙げられる地域は、大橋や姪浜がある。

地理
位置
九州の北部。日本海(博多湾・今津湾・玄界灘)に面した半月型の福岡平野の大半の部分を市域とする。北は博多湾の北辺に位置する砂州である海の中道・陸繋島である志賀島、西は糸島半島の東部まで市域となっている。南・南西は脊振山地に含まれる山間部まで市域が伸びており、佐賀県に接している。ほかに有人島嶼として、博多湾上の能古島や市の西部で博多湾口付近の玄界灘上に浮かぶ玄界島、そのさらに西北部にある小呂島を市域に含んでいる。

福岡市から壱岐・対馬を挟んで向かい側に朝鮮半島がある。日本の人口100万人以上の主要都市としては韓国のソウル特別市、中国の上海市、台湾の台北市に最も近い都市で、直線距離では東京特別区から約880km、大阪市から約480km、広島市から約200km、韓国の釜山広域市から約200km、ソウル特別市から約540km、中国の上海市から約890km、台湾の台北市から約1280kmの位置にある。

地形
市域の多くは福岡平野に含まれており、一部に小高い山なども存在するものの概ね平坦である。他の大都市と比べて平坦であるため、通勤や通学、買い物における自転車利用の利便性が高い。市域西部・西南部は脊振山地の一角を成しており、標高が1000mを超えているところもあり、起伏の大きい地形となっている。市街地の海岸部は大半が埋立地であり、港湾・住宅などが建設されている。また、博多湾東部には人工島も建設されている(アイランドシティ)。一方、西区の大部分や東区海の中道と島嶼部などには自然海岸も残っている。また、玄界島の北方約300mに黒瀬と呼ばれる幅200m程度の岩礁が発達している。黒瀬は、新生代第四紀に活動した福岡県唯一の火山島に分類され、玄武岩で構成されている。

市内を流れる河川としては、市域中心部を流れる那珂川・御笠川や市域東部を流れる多々良川、市域西部を流れる室見川などの二級河川はあるが、一級河川はない。従って自主水源に乏しくたびたび大規模な渇水(例:昭和53-54年福岡市渇水)に見舞われている。

長大河川はない一方で、前述のとおり平野周辺の山地から短い河川長とやや急な勾配で博多湾に流れ込む河川はおおむね市街地を経由しているため、集中豪雨があった場合に氾濫しやすく、それが福岡平野を形成したと見られるが、現代において都市治水上の課題となっている。

気候
日本海に面しており、温暖ではあるが冬季には大陸からの寒気の影響を受け、日本海型気候区の特徴を示す。なお、背振山地やその麓にあたる地域はそれよりも多くなる。冬季に日照時間が少なくなる点が太平洋側諸都市と異なり、年間日照時間は概ね1800 - 1900時間程度で、九州の他地域に比べてやや短い。冬季の日照時間は少ないが、降水量分布の観点では夏季に降水量のピークがあり冬季の降水量は少ない典型的な夏極大型の太平洋側気候であり、島根県以東の日本海側気候の地域と比べ冬季の10mm以上の雨日数と降雪量が極端に少ないという点で典型的な日本海側気候とは異なっている。

内湾に面している大都市のため、夏季は大阪市などと並んで昼夜を問わず大変暑さが厳しい地域の一つである。6月から真夏日が見られ、7月以降、9月にかけて真夏日の厳しい暑さが続く。1991-2020年平年値では8.1日(81-10年平年値5.5日)と、近年は猛暑日の観測日数も急増している。地勢的にオホーツク海高気圧の影響はほとんど受けず、チベット高気圧に覆われ暑い期間が安定して長く続く。特に夜間の高温が特徴的であり、深夜帯では南に位置する鹿児島市等よりも高く、那覇や石垣島など南西諸島の都市部を除くすべての気象観測点で最も高い夜間気温となる日も多い。ヒートアイランド現象が著しく、戦前からの熱帯夜日数の増加率が日本の主要な気象観測点で一番高くなっている(1936年-2007年にかけて10年で5.0日のペースで増加)。平年の熱帯夜日数は本土では大阪市、神戸市、鹿児島市に次いで多い38.7日で、実に1か月以上に及ぶ。猛暑日30日以上、熱帯夜50日以上となった年もある。九州という低緯度地域で夏期にはより湿った気団の影響を受けやすい上、市街地が博多湾に面しており湿った海風が入りやすく、気温に加え湿度が高い。そのため東京23区や名古屋市など東日本の主要都市と比べ不快指数や暑さ指数(WBGT、湿球黒球温度)が高く、体感的な暑さは厳しくなる。近年は特に夜間に気温が下がりにくくなっており、2018年8月22日には国内で8例目となる最低気温30℃以上、国内観測史上2番目に高い最低気温30.5℃(いわゆる超熱帯夜)を記録した。

冬季は北側の玄界灘を流れる暖流である対馬海流の影響を受けるため、都市化と相まって放射冷却効果は顕著に弱くなる。冬日は非常に少なく(平年2.5日)、全くない年もある。東京23区や名古屋市、京都市などと比べて冬の平均気温は約2.0℃高く、気温の面で温暖と言える。しかし北西季節風が吹きつけ、曇天の日が多く日照時間は太平洋側と比べてかなり少ないため体感気温は低めである。また比較的大陸に近いために西回りで強い寒波が流れ込みやすく、一時的に寒さが厳しくなり最高気温が0〜3℃台となることもある。降水量は少ないが、降水日数は太平洋岸の諸都市よりやや多くなっている。平年の年間降雪日数は15.6日で、積雪は年1 - 2回、最大5cm程度で、積雪が全く無い年も珍しくない。これは、北西季節風の風上が朝鮮半島の影響で狭くなっている対馬海峡のため、北西季節風の海上吹走距離が短く、雪雲が発達しないためである。北西風型の冬型では、吹走距離が短く未発達の雲がかかる福岡市の積雪が0cm〜3cm程度なのに対し、東シナ海上の吹走距離が長く発達した雪雲がかかる鹿児島市が20cm以上の大雪になったという例も度々起こる。早良区南部(脇山・内野・板屋・曲渕)や山沿いでは積雪量はやや多くなるが、日本海側や広島市などの山陽地方の山沿いと比べても少ない。

年間の雷日数は25.5日と比較的多く、太平洋側と異なり冬季にもしばしば落雷が観測される。夏の晴天日のいわゆる夕立は少なく、首都圏のような中心部直撃の激しい雷雨や降雹はない。その分夕立による打ち水効果を期待できず、熱帯夜が多くなっている(平年値の統計期間は1991年-2020年)。


市街地構成
市の中央部にある天神地区(中央区)が市の中心部で、ここには数多くのデパートやビルが建ち並んでいる。天神から那珂川を挟んだ東隣には那珂川の本流と支流(博多川)に挟まれた中州地形部分があるが、そこが日本三大歓楽街の一つに挙げられる中洲である。そのさらに東隣は「博多」の市街地である。その博多市街地の南東に博多駅が位置している。中洲から博多駅の間の一帯はオフィスビルやビジネスホテルなどが建ち並ぶビジネス街である。天神地区の西および西南に位置する大名、今泉、警固では、1990年代後半ごろから主に若者をターゲットとした店舗が増え、若者の町として急速に発展している。

大名から西へ行くと福岡城跡がある。さらに西方、天神から約4kmの位置には、福岡市の副都心を成す繁華街の西新地区(早良区)がある。同地区(中央区地行、西新、藤崎、百道にまたがる地区)の北側は1980年代に埋立により開発された土地で、シーサイドももちと呼ばれ、当時として新しい市街地が形成されている。

市域東部の博多湾上においてアイランドシティ(東区)と呼ばれる人工島が建設中であり、2000年代後半から2010年代初頭頃にかけて、港湾地区と住宅地の一部が竣工している。福岡市では、2000年(平成12年)前後から市東部のJR鹿児島本線、西鉄貝塚線沿線において土地区画整理事業や連続立体交差化事業などの市街地開発事業を実施しており、古くから東部の副都心とされる香椎駅・西鉄香椎駅周辺の香椎地区とJRの旧香椎操車場跡地を利用した新興市街地である千早地区との間、および箱崎地区と吉塚地区との間で整備事業が進んでいる。連続立体交差事業は、千早地区が2004年頃、箱崎地区が2004年3月、香椎地区が2007年3月に竣工した。また、土地区画整理事業は、箱崎地区、千早地区については2010年頃までにほぼ完了し、香椎地区についても2021年に完了した。

市内南部方面を網羅する、福岡高速5号線や福岡外環状道路を中核とする都市計画道路の整備も進み、2011年4月に福岡外環状道路が全線完成供用されるのと前後して、これに接続する新たな主要幹線道路が都市計画道路として整備されほぼ完成している。2012年7月には高速5号線が全線完成し福岡高速環状線となった。

市街地形成と関連した重大な動きとして、九州大学のキャンパス移転が挙げられる。本部を始め多くの学部が置かれていた東区の箱崎キャンパスと、主に教養部が使用していた中央区の六本松キャンパス(旧制福岡高校校地)を西区に新たに開発した伊都キャンパスに移転させる計画である。伊都キャンパスへの玄関口となる今宿から周船寺にかけての地区では伊都土地区画整理事業が実施され、西部地区に新たな拠点地域が整備された。キャンパス移転は2005年より開始され、同年には九大学研都市駅も開業している。一方、六本松キャンパスの跡地には複合施設・六本松421が開業し、福岡高等裁判所・福岡高等検察庁・福岡県弁護士会館などの法曹関係の施設も当地に移転した。箱崎キャンパスの跡地では「Fukuoka Smart EAST」計画のもと先進的な都市づくりが行われることとなっている。

このほか、駅周辺再開発事業により、福岡市地下鉄姪浜駅周辺の姪浜地区(西区)に新興の商業地が、西鉄大橋駅周辺の大橋地区(南区)にも既存商業地が、それぞれ発達している。

また、街路は、新しく建設された主要幹線道路においては無電柱化、街路樹の整備が促進されている。

さらに都市景観上の大きな特徴として、郊外に超高層マンションが林立しているにももかかわらず、中心部に超高層ビルが存在しないことが挙げられる。これは中心部の至近距離に福岡空港が存在し、航空法の制限表面によりビルに高さ規制が掛かっているためで、博多駅地区では60m、天神地区でも70m程度までが限度となっている。そのため、市では天神及び博多駅周辺500m圏内のビルの建て替えなどに合わせて、「天神ビッグバン」・「博多コネクティッド」と称した大規模な市街地再開発事業に着手しており、国家戦略特区制度を活用して高さ制限の緩和が行われることとなっている。

福岡市全域のうち玄界島及び小呂島を除く都市計画区域34,082ヘクタールのうち約半分にあたる17,710ヘクタールが市街化調整区域に指定されており、新規に建築物を建築することなどが厳しく規制されているが、既存集落等においては、一定の区域を定めて、住宅等の一部の建築物の用途に限り、建築を認める制度が福岡市開発行為の許可等に関する条例で定められている。福岡市においては2021年現在も人口が増加し続けており、郊外への開発圧力は依然として高く、線引き制度による規制の重要性は減じていないが、市街化調整区域では、少子高齢化の進む既存集落の活性化も課題となっている。


「福岡」と「博多」
都市名は「福岡」であるが、「福岡」を称する市の中心駅名は、西鉄の西鉄福岡(天神)駅(旧名称は「西鉄福岡」)のみで、JRは「博多」を用いている。

福岡は福岡藩黒田氏の「武家町」、博多は古来から国際貿易港としての「商人町」として栄えた歴史があり、那珂川を境として福岡と博多は元々は別々の都市であった。1889年の市制施行の際には、市名を「福岡」「博多」のどちらかにするかで一悶着があったが、都市名を福岡、中央駅名を博多にすることで合意(詳しくは歴史で後述)。新幹線開通時は博多が玄関口となり、博多の知名度が大きく上回ったが、今日では城下町のはずれに位置した天神地区の台頭もあり、かつての「福岡」が商業の街、「博多」がビジネス街となった。こうしたことから「博多」より「福岡」という名称で呼ばれることが多くなり、博多は市内の一地区名でしか用いられないことが多くなった。

近年の福岡・博多地区は武家町・商人町を区別する色合いは薄くなり、双方を包含して九州全体の経済・文化などの中心的機能を担う役割が一層高まっている。

隣接する自治体
以下の各市町に隣接している。括弧内は、その市町が隣接している福岡市の行政区。

福岡県


大野城市(博多区)
春日市(博多区・南区)
糸島市(西区・早良区)
那珂川市(南区・早良区)
糟屋郡
宇美町(博多区)
粕屋町(東区)
志免町(博多区・東区)
新宮町(東区)
久山町(東区)
佐賀県


佐賀市(早良区)
神埼市(早良区)
神埼郡
吉野ヶ里町(早良区)
隣接市町のうち、福岡県に属している市町は、いずれも福岡市のベッドタウンとして発達している。しかし、佐賀県に属している隣接市町は福岡市とは脊振山地によって隔てられており、ベッドタウンとして発展するには至っていない。なお福岡都市圏に属している鳥栖市、基山町、みやき町は福岡市隣接市町ではない。

2005年(平成17年)10月1日に佐賀県内の佐賀市と、かつて福岡市に隣接していた佐賀郡富士町・神埼郡三瀬村が合併し、新市制による佐賀市が誕生[27] したことで、県境を挟んで県庁所在地同士が接することになった。但し、福岡市と佐賀市の中心部は直線距離で50kmほど離れている。

海を挟んだ長崎県壱岐市・対馬市とも隣接扱いされる事もある。電話料金は離島特例として隣接扱いである。


歴史
原始
諸岡遺跡(博多区)や吉武遺跡(西区)から旧石器が出土している。

縄文時代の遺跡としては、糸島半島東部の大原D遺跡(西区)で縄文時代早期の竪穴住居が見つかっているほか、柏原遺跡(南区)からは草創期から後期の土器や集石炉が見つかっている。中期の遺跡として、野多目拈渡遺跡(南区)や有田遺跡(早良区)からイチイガシなどのドングリ類の貯蔵穴がまとまって見つかっている。後期の遺跡では、元岡瓜尾貝塚、桑原飛櫛貝塚(いずれも西区)などの貝塚があり、四箇遺跡(早良区)からは多数の縄文土器や石器が出土している。縄文時代の福岡平野は海底であったことが真鍋大覚の調査で判明しており、「肥前島」の端にあたる前記の遺跡ぐらいで、旧石器時代と同様に少ない。

そのころの遺跡として市内の板付遺跡(博多区)がある。また志賀島(東区)で発見された金印「漢委奴国王印」は、1世紀頃の大陸文化との交流を示す貴重な史料である。後漢書東夷伝にある「建武中元二年(西暦57年) 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」の記事にある印綬は、この金印のことだと考えられている。また3世紀頃の様子を記述したいわゆる魏志倭人伝の記載から、「奴国」は博多付近(後の那の津)との説が有力である。

ちなみにこの「魏に朝貢していた」という記録が金印の発見時にひとつの騒動を起こす。天明4年(1784年)に百姓甚兵衛により金印が発見されたとき、主として学者たちが「魏に朝貢していたとはけしからん。このようなものは鋳つぶしてしまうべきである」と強硬に主張し、一時、福岡藩の藩論もそちらに傾くのである。それを、藩校・甘棠館の学長をしていた儒学者亀井南冥が身体を張って阻止したという。

市内各地に古墳が残っており、平野部には那珂八幡古墳、東光寺剣塚古墳、梅林古墳、今宿大塚古墳などの前方後円墳が点在し、油山などの丘陵部には油山古墳群、金武古墳群、今宿古墳群などの円墳の分布地帯がある。

伝説時代、古代
神功皇后の三韓征伐伝説がこの地には多く残る。東区香椎の香椎宮は、神功皇后が夫である仲哀天皇の神霊を祀ったところである[33]。 奴国の後身として大和時代には「那の県」「儺県」と呼ばれており、日本書紀などにも記述がある。

527年の筑紫の君磐井の乱の後、朝廷が那津官家を造らせたと日本書紀にある。(「那津の口(博多大津)に建てよ」とある)

607年、小野妹子が第2回遣隋使として那の津より渡る。630年には遣唐使が渡っている。

663年、百済再興を目論んで派遣した倭国援軍が、白村江の戦いにて唐、新羅軍に大敗北を喫する。唐、新羅連合軍の報復に備えた大和朝廷は、その守りとして博多湾岸に防人を配し、水城、大野城などの城砦を築く。これより後、全国から徴発された若者が防人として北部九州に配備され、故郷を遠く離れて軍務に就く辛さと哀しみを詠い、万葉集に残されている。

757年、櫛田神社が開かれる。

7世紀から11世紀にかけては、国際交流が盛んになり、665年には筑紫館(つくしのむろつみ、つくしのたち)が建設され、これが後に大宰府の迎賓館となる鴻臚館(こうろかん)となった。外国からの使節の接待、遣唐使などの送別といった迎賓館としての機能に加えて、貿易事務所、検疫所的な役割も果たしていたらしい。鴻臚館遺跡は1988年に当時の平和台野球場の外野席の土盛りの下から発見され、市民を驚かせた。奈良時代は目の前が海岸であり、使節の船は沖がかりして小舟で上陸した。

なお、遣唐使廃止の建白を行った菅原道真が901年に大宰府に左遷されたとき、博多に上陸し、四十川(よんじっかわ)の清流を水鏡として自らの姿を見、そのやつれようを嘆いたという。その地に建立されたのが水鏡天満宮(すいきょうてんまんぐう)(水鏡天神)であり、福岡市の都心・天神の地名は、この事に由来する。

806年、東長寺が開かれる。

919年、箱崎放生会始まる。923年、筥崎宮が開かれる。

中世
1161年には平清盛により日本初の人工港『袖の湊』が建設された。これは埋め立てにより埠頭を築いたものである。天神・博多部はまだ海の底であり、整備された港湾の沿岸部には筥崎宮、住吉神社、櫛田神社などの大きな寺社が立地していた。中世の寺社は貿易の重要な出資者であり、博多の冒険商人たちのスポンサーであった。

11世紀の終わりごろから、博多にはのちに「大唐街」とよばれる唐人街が形成された。異国風の建物が建ち並び、多数の外国人商人が行き交う大都市であった。この時代に博多にいた唐人商人に謝国明らがいる。中国大陸と博多を船団を組んで盛んに往来し、日宋貿易で富を築いた中国商人は、博多に居住して活発な商業活動を行い、博多の寺院とも結び、その力は中央にも及んで特に「博多綱首」と称されるに至った(「綱首」とは「船長」の意の尊称)。

博多は文化の受け入れ窓口でもあった。1195年 栄西が博多に日本初の禅寺である聖福寺を開いたが、このときも博多綱首らが物心両面の援助をしている。栄西は南宋から茶を持ち帰り喫茶の習慣を日本中に広めたことでも知られるが、「饅頭(まんじゅう)」「饂飩(うどん)」「蕎麦(そば)」などの日本人になじみ深い食物が日本に入ってきたのもこの時期の博多を通じてであった。

室町時代を通じて博多は年行司と呼ばれる12人の豪商の会議によって市政が運営され、日本史上において初めての自由都市であった。堺 (堺市) (堺は36人の会合衆によって市政が運営された)と並び貿易都市として繁栄するが、それゆえに戦国時代には戦国大名の争奪の対象となり、豊臣秀吉と島津義久の戦いの際に島津軍によって焼き払われた。 九州平定後、1587年7月24日(天正15年6月19日)に筑前箱崎において豊臣秀吉はバテレン追放令を発令した。

元寇
しかしその反面、他国から侵略の被害にも遭っており、869年には新羅海賊が博多湾に侵入、1019年には刀伊の入寇があり、博多は常に対外的な脅威に曝されていた。その最大の脅威は、宋を滅ぼしてユーラシア大陸のほとんどを支配した人類史上最大の帝国、モンゴル帝国である。

高麗を屈服させたモンゴル帝国のクビライが日本の服属を求め、時の鎌倉幕府がこれを拒否したことから、1274年、モンゴル人・漢人・女真人・高麗人などからなる4万人の元軍が襲来した(文永の役)。10月5日に対馬、10月14日に壱岐を襲撃し、平戸鷹島の松浦党の本拠を全滅させた元軍は、10月20日、百道原から博多湾に上陸し、激しい地上戦が展開された。しかし、赤坂の戦いや鳥飼潟の戦いで破れるなど苦戦を強いられた元軍は、撤退を決め、夜間の撤退を強行したため、撤退中に暴風雨を受け、甚大な損害を被った。

幕府は、再度の元軍の襲来に備え、博多湾岸に約20kmにも及ぶ石築地を築いた。この史跡「元寇防塁」は現代にも残っており「防塁」という地名も存在する。そして、1281年に元軍が襲来(弘安の役)。博多湾に現れた元軍は、防塁から上陸することを避け、陸繋島である志賀島を占領し、博多への進出を窺うが、日本側の総攻撃を受け大敗し、壱岐島に撤退した(志賀島の戦い)。

近世
1587年からは九州をすべて服属させた豊臣秀吉により博多の復興がなされた。これを太閤町割と呼ぶ。交易の自由や、町人による街の自治が行われ、新たな自治都市が確立された。なお当時の博多とは、博多湾南岸の東西に渡る地域を指したものだった。このときの秀吉の意図には、文禄・慶長の役で出兵を行うにあたり、貿易都市・博多を物流の補給基地として活用しようというものがあったと思われる。

関ヶ原の戦いの後の1600年に黒田如水、黒田長政親子が筑前国に入国し、その後市内中心部の那珂川から東を博多、西を福岡と呼び、そのまま定着した。黒田親子は、小早川秀秋の居城であった名島城(東区)に入城したが、名島城は博多湾に面した小高い丘の上にあるために城下町が作れなかった。そこで1601年から当時の警固村(現・中央区)福崎に新たな城・福岡城と城下町をつくった。

その際、出身地の備前国福岡(現在の岡山県瀬戸内市長船町福岡)に由来して、城下町を福岡と命名した。黒田藩は博多のまちの自治を広く認めたため、町人の商業都市・博多と武士の行政都市・福岡が機能分担しつつ隣接するという、全国的にあまり類例のない「双子都市」が誕生した。博多と福岡の境界である那珂川の中州は歓楽街としての中洲が発展した。

江戸時代を通じた幕府の鎖国政策により、外国との通商が長崎と対馬に限られたため、福岡・博多の国際貿易都市としての展開はあまり見られなかった。

なお、前述のとおり、天明4年(1784年)に志賀島で金印が発見されている。


近代
その後、江戸時代から明治時代初期まで博多と福岡は共存していたが、1876年に地域区分の再編によって「福博」(ふくはく)という一つの地域区分とした。さらに1878年、郡区町村編制法の施行により福博が福岡区に改称され、「博多」を名乗る自治体は、一旦消滅した。

1889年に市町村制度の施行に伴い福岡区が市制を施行する際、市名を「博多市」にする、あるいは福岡と博多を再分離する声も上がったが、いずれも実現せず、都市名は福岡市となった。市制施行のときの「名前争い」は深刻で、福岡派と博多派が互いに闇討ちをしあうという過熱ぶりであったという[要出典]。翌1890年,明治23年第2回市会は「名称問題」で紛糾し、採決したところ完全に賛否同数であり、福岡部出身の議長が議長席を降り一議員として投票したが再び同数となり、最終的に福岡部出身の議長代理者の裁決で「福岡」と決したものである。

明治のこの時点では、「福岡」と「博多」は別の地域という概念が強く残っていた。そのためちょうど同じ頃、当時の九州鉄道会社(後に国有化)が福岡市から現在の久留米市までの鉄道を敷設する際、市の中心駅は「博多」地区にあるということで駅名は福岡駅ではなく、博多駅となった。

なお「福岡駅」の名は、福岡市中央区天神に位置する西鉄の駅が名乗り、2001年には西鉄福岡(天神)駅と駅名が変更された。なお、1972年の政令指定都市昇格に伴い、行政区として「博多区」が設置され、ここにほぼ百年ぶりに「博多」の地名が復活することとなった。

かつて町人の商業都市として栄えた『博多』は、官公庁の集うビジネス街、武士の行政都市として発展した『福岡』は、繁華街商業地となり、機能が入れ替わった。

年表
原始 - 古墳時代
BC40000年 諸岡遺跡、吉武遺跡から旧石器
BC10000年 大原D遺跡から縄文時代早期の竪穴住居
BC2000年 野多目拈渡遺跡・有田遺跡からドングリ貯蔵穴、元岡瓜尾貝塚、桑原飛櫛貝塚
BC1000年 四箇遺跡から多数の土器と石器
BC450年 板付遺跡(日本初の稲作農業)
57年 奴の国王が後漢光武帝から「漢委奴国王」の金印を受ける
527年 磐井の乱。筑紫国造磐井がヤマト政権に対し反乱を起こす
536年 那の津(博多区比恵、南区三宅付近)に官家(みやけ)をつくる。(那津宮家)大宰府の前身
古代
664年 前年倭国軍が、白村江(はくすきのえ)にて唐、新羅軍に負け百済が滅亡。その守りとして博多湾岸に防人をおき、水城(現在の大野城市、太宰府市境付近)を築く
665年 筑紫館(つくしのむろつみ、つくしのたち)を設置。のち鴻臚館となる
757年 櫛田神社(博多区)創建
806年 空海が唐より帰り、真言宗東長寺を開く
869年 新羅海賊が博多湾に襲来
919年 箱崎放生会(ほうじょうや)が始まる
923年 筥崎宮創建。穂波郡大分宮を移築
941年 小野好古(おののよしふる)、大蔵春実(おおくらはるざね)が博多湾にて、大宰府を放火した藤原純友を退散させる。(承平天慶の乱)
1019年 刀伊の入寇(といのにゅうこう)。女真族の一部(刀伊)が壱岐・対馬を襲い、更に筑前を襲った。大宰権帥の藤原隆家が奮戦し撃退する。
1161年 平清盛が日本初の人工港「袖の湊」を建築
1179年 博多どんたくの起源である博多松囃子が始まる
中世
1195年 栄西が博多に日本初の禅寺である聖福寺を開く
1241年 博多祇園山笠が始まる
1242年 円爾が謝国明の助力で承天寺を開く
1274年 元寇(文永の役)モンゴル帝国軍は4万
1276年 元寇防塁を築く
1281年 元寇(弘安の役)モンゴル帝国軍、高麗軍、江南軍あわせて14万
1282年 北条時定が姪浜(西区)に鎮西探題を定める
1336年 多々良川河口(東区)にて、足利尊氏が菊池武敏を破る(多々良浜の戦い)
1550年 フランシスコ・ザビエル博多へ来舶[37]
1559年(永禄2年) 筑紫惟門が博多の街を襲撃して破壊[38]
1569年(永禄12年)大友氏と毛利氏の多々良浜の戦いで大友氏が勝利
近世
1580年(天正8年)には龍造寺隆信が筑前国に進撃。博多の町のほぼ全土が焼失[39]。
1584年 島津義久の軍が博多を占領する。博多の一部復興が始まる
1586年(天正14年)8月下旬に博多を焼き払って撤退する
1587年 7月24日(天正15年6月19日)に筑前箱崎において豊臣秀吉はバテレン追放令を発令する
1587年 豊臣秀吉が町割りを定め博多を復興(太閤町割り)黒田如水に住民を呼び戻す役目を担わせ、石田三成を博多奉行に任じ、博多商人の宗湛や島井宗室にも協力をさせ、本格的な復興に取り掛かる
1588年(天正14年)五大老の一人小早川隆景が入国
1595年(文禄4年)隆景の養子である小早川秀秋が領主となる。
1600年 秀秋は関ヶ原の戦いで西軍を裏切り東軍に付くものの備前と美作に移封され、代わりに黒田如水・長政親子が筑前へ入国
1601年 福岡城の建設に着手。以来、黒田氏の城下町となる
1687年 博多祇園山笠の追い山が始まる
1784年 志賀島(現在の東区)で甚兵衛が「漢委奴国王」の金印を掘り出す
1828年 シーボルト台風により博多湾で高潮が発生し、2,500人以上の死者
明治時代
市制施行以後の行政区域の変遷については、「行政区域の変遷」を参照のこと。

1870年 7月18日、福岡藩贋札事件。太政官札偽造が発覚し弾正台による捜査が始まる。
1871年 7月2日(太陽暦1871年8月17日)、黒田長知が藩知事を罷免、有栖川宮熾仁親王が知藩事となり、福岡藩は事実上の廃藩となる。
1871年 7月14日、廃藩置県により、福岡藩は福岡県、有栖川宮が引き続き知県事となる。県内を32区に区分し、福岡を第一区、博多を第二区とする。
1872年 9月 15日、県内を16区に再編成し、福岡を第一大区、博多を第二大区とする。
1873年 6月、筑前竹槍一揆。福岡城内の県庁を打ち壊す。
1876年 5月、県内を9区に再々編成し、福岡と博多を1つの区に統合し第一大区とする。
1877年 3月、福岡の変。西南戦争を起こした西郷隆盛に呼応した武部小四郎や越智彦四郎を中心とした旧福岡藩士により福岡城襲撃が計画・実行されるが失敗する。
1878年 11月1日、郡区町村編制法施行により福岡区とする。
1889年
4月1日、市制施行により、福岡区は福岡市となる。日本で最初に市制施行した市の一つ。
12月11日、九州鉄道(初代)博多 - 千歳川間開業により、博多駅が開業。
1898年 マグニチュード6の糸島地震。福岡市西部の糸島半島付近が震源地とされ、家屋の一部に被害が発生する。
1899年 8月4日、博多港開港。
1903年 京都帝国大学福岡医科大学(後の九州帝国大学医科大学、現在の東区内)を開設。
1909年 医科大学教授榊保三郎により、日本最古級のアマチュアオーケストラであるフィルハーモニー会(現在の九大フィルハーモニー会の前身)設立。
10月 市章を制定。
1910年 3月9日、市内電車の福博電気軌道が開通(のちの西鉄福岡市内線)。
1911年
1月1日 九州帝国大学(現・九州大学)創立。分科大学として工科大学を設置。
4月1日 京都帝国大学から福岡医科大学が移管され、九州帝国大学医科大学となる。
10月2日、市内電車の博多電気軌道が開通(のちの西鉄福岡市内線)。
大正時代
1920年 10月1日、第1回国勢調査が実施。当時の福岡市の人口は95,381人で、国内では第17位、福岡県内では八幡市(現北九州市)に次ぐ第2位であった。
1922年 12月24日、来日したアルベルト・アインシュタインが大博劇場で講演を行う。
1923年 3月、曲淵ダムと平尾浄水場(現福岡市動植物園の植物園地区)が完成し、上水道による給水を開始。
1924年 4月12日、九州鉄道(二代目。現在の西鉄天神大牟田線)が開業。

昭和時代(戦前)
1927年 3月25日 - 5月23日、東亜勧業博覧会開催。
1929年 福岡 - 大阪 - 東京の定期旅客航空便が開設。旧入船町(現在の中央区港-荒戸付近)の日本航空の水上機発着場を使用。
4月1日、早良郡原村・樋井川村の編入合併により長崎市の人口を上回り、九州最大都市となる(1963年、新しく発足した北九州市に一旦九州一の座を明け渡した)。
1930年
名島水上飛行場(福岡飛行場、現在の東区内)が開場。福岡 - 大阪間は35円。
6月、NHK福岡放送局(JOLK)ラジオ本放送開始。
0:48
1931年
9月、チャールズ・リンドバーグが名島水上飛行場に来場
11月、福岡市歌が制定される
1936年 雁ノ巣飛行場(福岡第一飛行場、現在の東区雁ノ巣レクレーションセンターのあたり、当時は糟屋郡和白村)が日本初の国際空港として開場。名島水上飛行場(福岡飛行場)は福岡第二飛行場と改名。
1936年3月9日、広田弘毅が福岡市(福岡県)出身としては初の内閣総理大臣となる。( - 1937年2月2日)
1937年 5月28日、ヘレン・ケラー来訪。西南学院、福岡女学院および福岡聾学校を訪問。
1945年
5月、陸軍席田(むしろだ)飛行場(現在の福岡空港)開場。
6月19日、福岡大空襲。米軍機による大規模夜間爆撃により死者902人を出した。
昭和時代(戦後)
1945年 9月22日、米軍が進駐。板付空港(現福岡空港)を接収。
1946年 10月15日、天神地区で新天町商店街が営業開始。
1948年
平和台陸上競技場が完成。
10月、第3回国民体育大会開催。
1950年
平和台野球場完成。
1951年
10月、福岡空港(別称:板付空港)で民間航空が再開
12月1日、ラジオ九州(現:RKB毎日放送)開局。
1953年
6月 梅雨末期の大雨により大被害(昭和28年西日本水害)
8月22日、福岡市動物園が開園
1954年 2月8日、マリリン・モンロー、ジョー・ディマジオ 新婚旅行で来福。
1956年 3月1日、NHK福岡放送局、テレビ(JOLK-TV)本放送開始。
1957年 4月14日、福岡水族館が開館
1963年 12月1日、博多駅が現在地に移設
1968年
九州芸術工科大学(現在の九州大学芸術工学部)設立。福岡市内では2校目の国立大学の設置。
8月、福岡水族館が閉館。
1972年
4月1日、北九州市に次ぐ九州2番目の政令指定都市となり、中央区・博多区・東区・西区・南区の5区が発足する。
西鉄ライオンズがシーズン終了後、福岡野球株式会社に売却される。太平洋クラブと提携し、球団名は「太平洋クラブライオンズ」となる。
1975年
3月10日、山陽新幹線博多駅開業。
国勢調査に基づく市の人口が初めて100万人を突破。
1976年 中央区天神地区に天神地下街が開業。
1977年 太平洋クラブライオンズが「クラウンライターライオンズ」に改称(クラウンガスライターとの提携のため)。
1978年
異常少雨により5月20日から287日間に渡り断水を伴う給水制限が実施された(昭和53-54年福岡市渇水)。
クラウンライターライオンズが西武グループに球団を売却、新球団西武ライオンズとして福岡から埼玉県所沢市に移転。福岡からプロ野球球団が姿を消す。
1979年
2月11日、市内電車(西鉄福岡市内線)全線廃止。
人口が北九州市を抜き、再び九州最大となる。
1980年
6月1日、福岡市植物園が開園。
10月20日、福岡都市高速道路部分開通
1981年 7月26日、福岡市地下鉄部分開業
1982年 5月10日、西区が(新)西区・早良区・城南区に3分割される
1988年 大阪市を本拠地にしていたプロ野球チーム・南海ホークスが球団売却に伴い福岡市に移転し、「福岡ダイエーホークス」と名称を変更することを決定。翌1989年から平和台球場を本拠地とする。11年ぶりに福岡にプロ野球球団が戻ってくる。
10月、荒津大橋が開通。
平成時代
1989年
3月17日 - 9月3日、シーサイドももちにてアジア太平洋博覧会(通称:よかトピア)開催。開幕と同時に福岡タワーが完成。
4月18日、マリンワールド海の中道(水族館)が開館(福岡市では約20年ぶりとなる水族館)。
1990年
東平尾公園完成。
第45回国民体育大会(とびうめ国体)開催。
10月、福岡市博物館開館
1993年 3月31日、福岡ドーム竣工。4月2日開場
1994年 猛暑と少雨のため8月4日から295日間にわたり断水を伴う給水制限が実施された(平成6年渇水)。
1995年
静岡県藤枝市のJFLサッカークラブである藤枝ブルックスが福岡市に移転。「福岡ブルックス」と名称を変更。移転当初数か月は平和台陸上競技場を本拠地とする。
博多の森球技場が完成。福岡ブルックスの本拠地となる。
8月23日 - 9月3日、ユニバーシアード福岡大会開催。
1996年 福岡ブルックスが「アビスパ福岡」に改称の上Jリーグ加盟。
1997年 8月9日 - 8月13日、パンパシフィック水泳選手権大会開催。
1999年
6月29日、梅雨前線による大雨で博多駅周辺や博多駅地下街が浸水する。地下店舗の従業員1名死亡。
10月28日、NPB日本シリーズで福岡ダイエーホークスが中日ドラゴンズを下して日本一になる。
2000年 7月8日、福岡市博物館にて、九州・沖縄サミット(蔵相会合)開催。
2001年 7月16日 - 29日、第9回世界水泳選手権大会開催(アジアで初の世界水泳選手権大会開催)。
2002年
11月1日、ヨドバシ博多が開業。
2003年
7月19日、梅雨末期の大雨で博多駅付近を中心に浸水などの被害を受ける。
10月、九州芸術工科大学が九州大学と合併。
2004年 福岡ダイエーホークスがソフトバンクの球団買収により、福岡ソフトバンクホークスとなる。
2005年
2月3日、福岡市営地下鉄七隈線開業。
3月20日、玄界灘にてマグニチュード7の福岡県西方沖を震源とする地震が発生。中央区と東区で震度6弱を記録し市内で家屋の損壊や死者1名を出した。特に震源地に近い玄界島では大半の家屋が全半壊するなどの大きな被害を受けたため、多くの住民が島外に避難した。政令指定都市で震度6クラスの地震が起こったのは、兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)の神戸市で震度6 - 7を観測して以来10年ぶり。
9月9日 - 11月20日、アイランドシティにて第22回全国都市緑化ふくおかフェア(通称・アイランド花どんたく)開催。
9月22日、山崎広太郎市長(当時)により福岡オリンピック構想発表(招致実現せず)。
10月1日、九州大学伊都キャンパスが福岡市西区と糸島市にまたがる地域に開設。
2006年
8月25日、市の職員が福岡海の中道大橋飲酒運転事故を起こす。
11月19日、福岡市長選が行われ、民主党推薦の吉田宏が当選。民間出身の市長は50年ぶり。
2007年
11月15日、天神ロフトが開店。
2008年
8月12日、三瀬トンネル有料道路に九州最大級のループ橋が完成。
2009年
7月24日、連日の集中豪雨により、樋井川流域に避難勧告が出される。
2010年
3月19日、天神の岩田屋旧館に福岡パルコがオープン。
7月13日、連日の集中豪雨により、那珂川が氾濫寸前となり福岡市内で避難指示が発令した。
11月14日、福岡市長選が行われ、元民放アナウンサーの高島宗一郎が当選。
2011年
3月3日、JR博多シティオープン。核テナントに博多阪急・アミュプラザ博多・東急ハンズが入り、同時に博多一番街もオープンした。
3月12日、九州新幹線全線開通。なお、全線開通の式典は前日に起きた東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)のため中止となった。
4月29日、福岡外環状道路が全線開通。
6月1日、推計人口で京都市を抜き政令市6位となる。
11月26日、ホークスタウンにHKT48劇場がオープン。
2012年
7月21日、福岡都市高速環状線が開通。
2013年
2月、中国からの微小粒子状物質(PM2.5)の飛来が顕著となる。
5月1日、推計人口が150万人を突破。
12月5日、ISUグランプリファイナル開催。
2014年
5月1日、国家戦略特区に指定される。
11月1日、福岡市東区の人工島(アイランドシティ)に新築移転した福岡市こども病院が開院する。
11月1日 - 3日、スペシャルオリンピックス日本夏季ナショナルゲーム(スペシャルオリンピックス2014福岡)が開催される。
11月9日、福岡マラソン2014が開催される。
2015年
10月1日、法定人口が神戸市を抜き政令市5位となる。
2016年
2月12日、福岡市中央卸売市場の青果市場、西部市場、東部市場の3市場が統合し、福岡市新青果市場(愛称:ベジフルスタジアム)がアイランドシティに移転・開場する[42]。
4月21日、KITTE博多オープン。核テナントは丸井(博多マルイ)。
4月28日、HKT48劇場が西鉄ホール(ソラリアステージ6F)へ移転。
11月8日、博多駅前2丁目(はかた駅前通り)交差点付近の地下鉄七隈線延伸工事現場で道路陥没事故が発生。同月15日、復旧作業を終え午前5時から全面通行を再開した[44]。(博多駅前道路陥没事故参照)
11月18日 - 20日、アメリカズカップ・ワールドシリーズ第9戦福岡大会が開催される。
12月1日、博多祇園山笠などの「山・鉾・屋台行事」がユネスコ無形文化遺産に登録。
2017年
10月1日、福岡市中央区六本松の複合施設六本松421に福岡市科学館が開館。
2018年
3月17日、博多バイパスが全線開通。
7月20日、福岡市の気温が観測史上(1890年以降)最高の38.3℃を記録する。
8月20日、福岡高等裁判所、福岡地方裁判所、福岡簡易裁判所が福岡市中央区六本松に移転する[47]。
8月27日、福岡家庭裁判所が福岡市中央区六本松に移転する[47]。
11月21日、MARK IS 福岡ももちがグランドオープン。
12月1日、福岡市総合体育館が開館。
12月4日、福岡市博多区で12月の観測史上最高の26.4℃(夏日)を記録する。
2019年
3月31日、福岡市九電記念体育館が閉館。
3月31日、福岡ビルが閉館。
令和時代
2019年
6月8日 - 9日、G20財務大臣・中央銀行総裁会議が開催。
2020年
2月11日、天神ビブレが閉店。
3月31日、天神コアが閉館。
7月21日、PayPayドーム隣にBOSS E・ZO FUKUOKAオープン。
10月14日、LINE Fukuokaを発起人、福岡市をオブザーバーにして地元企業9社(前述のLINE Fukuokaに加え西日本鉄道、九州旅客鉄道、嘉穂無線ホールディングス、西部ガス、西日本シティ銀行、福岡銀行、福岡国際空港、福岡地所)で「Fukuoka Smart City Community」を発足[53]。
11月2日、「BOSS E・ZO FUKUOKA」1Fに「西日本シティ銀行 HKT48劇場」がオープン。
2021年
3月12日、福岡市で観測開始以降最も早くサクラが開花する。
3月27日、福岡高速6号アイランドシティ線(香椎浜JCT-アイランドシティ)が開通。
6月21日 - 7月11日、福岡市を含む3市で新型コロナウイルス「まん延防止等重点措置」適用対象地域となる[57][58]。
8月2日 - 8月31日、福岡市を含む3市及び福岡地域で「まん延防止等重点措置」適用対象地域となる。
8月20日 - 9月12日、「まん延防止等重点措置」適用対象地域から「緊急事態宣言」に移行。9月9日には期限を9月30日まで延長することを決定。
8月22日、福岡市中央区天神ロフトビル8階にeスポーツスタジアム「esports Challenger’s Park」がオープン。
8月31日、イムズが閉館。
9月30日、スポガ香椎が閉店。「緊急事態宣言」解除。
10月4日、天神ビッグバンの規制緩和第1号として「天神ビジネスセンター」が開業。
12月30日、かしいかえんが閉園。
2022年
4月25日、ららぽーと福岡開業。
5月3日〜4日、博多どんたくが3年ぶりに開催される。

行政区域の変遷
市町村制施行以後。

1889年(明治22年)4月1日 - 市町村制度施行により、福岡区及び堅糟村の一部(字石堂川下)・春吉村の一部(字東中洲)・犬飼村の一部(字出来町)の区域をもって福岡市が発足。
同時に、現在の福岡市域に含まれる以下の町村が発足。
糟屋郡:箱崎町・多々良村・香椎村・和白村・志賀島村
席田郡:席田村
那珂郡:警固村・豊平村・千代村・堅粕村・住吉村・八幡村・三宅村・那珂村・曰佐村
早良郡:西新町・鳥飼村・原村・樋井川村・姪ノ浜村・山門村(のち壱岐村)・残島村(のち能古村)・田隈村・金武村・入部村・脇山村・内野村
怡土郡:周船寺村
志摩郡:今宿村・今津村・小田村(のち北崎村)・元岡村
1893年(明治26年)1月10日 - 早良郡姪ノ浜村が町制施行。姪浜町となる。
1896年(明治29年)2月26日 - 席田郡・那珂郡・御笠郡が合併し筑紫郡となる。怡土郡・志摩郡が合併し糸島郡となる。
1911年(明治44年)5月31日 - 筑紫郡住吉村が町制施行。住吉町となる。
1912年(大正元年)10月1日 - 筑紫郡警固村を編入。
1912年(大正元年)10月1日 - 筑紫郡千代村が町制施行。千代町となる。
1913年(大正2年)10月1日 - 筑紫郡堅粕村が町制施行。堅粕町となる。
1915年(大正4年)4月1日 - 筑紫郡豊平村の一部(大字金平を除く)を編入。
1919年(大正8年)11月1日 - 早良郡鳥飼村を編入。
1922年(大正11年)4月1日 - 早良郡西新町を編入。
1922年(大正11年)6月1日 - 筑紫郡住吉町を編入。
1926年(大正15年)4月1日 - 筑紫郡八幡村を編入。
1928年(昭和3年)4月1日 - 筑紫郡堅粕町を編入。
1928年(昭和3年)5月1日 - 筑紫郡千代町を編入。
1929年(昭和4年)4月1日 - 早良郡原村・樋井川村を編入。
1933年(昭和8年)4月1日 - 筑紫郡席田村および早良郡姪浜町を編入。
1933年(昭和8年)4月5日 - 筑紫郡三宅村を編入。
1940年(昭和15年)4月17日 - 筑紫郡那珂村が町制施行。那珂町となる。
1940年(昭和15年)12月26日 - 糟屋郡箱崎町を編入。
1941年(昭和16年)10月15日 - 早良郡壱岐村・能古村および糸島郡今宿村を編入。
1942年(昭和17年)4月1日 - 糸島郡今津村を編入。
1943年(昭和18年)2月11日 - 糟屋郡香椎村が町制施行。香椎町となる。
1950年(昭和25年)4月1日 - 糟屋郡多々良村が町制施行。多々良町となる。
1953年(昭和28年)7月5日 - 糟屋郡志賀島村が町制施行。志賀町となる。
1954年(昭和29年)10月1日 - 早良郡田隈村および筑紫郡曰佐村を編入。
1954年(昭和29年)11月1日 - 糟屋郡和白村が町制施行。和白町となる。
1955年(昭和30年)1月1日 - 早良郡入部村・脇山村・内野村が対等合併し、早良村が発足。
1955年(昭和30年)2月1日 - 糟屋郡多々良町・香椎町を編入。
1955年(昭和30年)4月5日 - 筑紫郡那珂町を編入。
1957年(昭和32年) - 筑紫郡春日町(大字須玖・大字小倉の各一部)大野町(大字雑餉隈の一部)と境界変更を行い、2町の一部を編入。
1956年(昭和31年)8月1日 - 早良郡早良村が町制施行。早良町となる。
1960年(昭和35年)8月27日 - 糟屋郡和白町および早良郡金武村を編入。
1961年(昭和36年)4月1日 - 糸島郡元岡村・周船寺村・北崎村を編入。
1971年(昭和46年)4月5日 - 糟屋郡志賀町を編入。
1975年(昭和50年)3月1日 - 早良郡早良町を編入。
1997年(平成9年)12月26日 - 糟屋郡新宮町と境界変更。
1998年(平成10年)1月1日 - 春日市と境界変更。


発祥
福岡市が発祥の地とされる事象には、東アジア地域との文化交流や貿易によってもたらされたものが多い。

日本における稲作農業の発祥の地 - 板付遺跡(博多区)から水田稲作の跡が発見されている。研究者によって異なるが、縄文時代晩期後半から弥生時代早期前半のものとされる。なお、佐賀県唐津市菜畑遺跡からも同時期の水田遺構が見つかっている。
日本における禅宗の発祥の地
日本における茶の発祥の地 - 1191年(建久2年)、栄西が中国から帰国後に禅宗を布教。その帰国時に茶の種を持ち込み日本で栽培を始めたとされる。早良区脇山には1975年に茶の発祥を記念する「茶徳碑」が建立されている。なお、日本で初めて茶の栽培を行った地は佐賀県神埼郡吉野ヶ里町の霊仙寺(脊振山中腹)と言われている。
日本におけるうどん・そば発祥の地 - どちらも鎌倉時代初期、中国に留学していた禅僧、円爾(聖一国師)が帰国後に持ち込んだといわれる。承天寺には「饂飩蕎麦発祥之地」の石碑がある。
日本における饅頭発祥の地 - 1241年(仁治2年)、円爾が立ち寄った博多の茶店の主人、栗波吉右衛門に教えたのが最初とされる。
制服としてのセーラー服発祥の地 - 1921年(大正10年)、福岡女学院中学校・高等学校が採用。



 


【[旅気分]]海界の村を歩く 日本海 壱岐島(長崎県)・勝本浦 】

この動画は壱岐市勝本町の勝本浦地区(故郷・漁師町)だけの動画です。
勝本浦表通りに特化した動画です。
正直、私自身驚きました。私の実家も写ってます。


 

【辰の島遊覧&渡船】
 「日本の海水浴場百選」の辰ノ島。壱岐随一の透明な砂浜の渚、奇岩・断崖絶壁を海から見上げる島巡り遊覧が一押し。

令和3年8月、勝本漁協観光案内所「ヒヨリミテラス」リニューアルオープン。
イカバーガーをはじめ、勝本町漁業協同組合漁師自慢のイカ料理を提供しています。遊覧船利用の前後に、ぜひお立ち寄りください。

 
 
 

T-style

本社:811-5501
長崎県壱岐市勝本浦勝本浦356
福岡office:815-0034
福岡県福岡市南区南大橋1丁目2-10 スカイハイツ大橋第二203

TEL:090-1343-7993

 

 

ICI株式会社
 
株式会社イーハイブ
 
株式会社カムラック