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佐賀県(武雄市)・陽光美術館・慧洲園20180101

いいね、水の音って。

武雄にこういうところがあるとは全く知らなかった。

みんな知ってんのかな😅

御船山は知ってるけど。

美術館600円+庭園400円=1,000円

これくらい取らないと駄目だよね。

自信持って金額設定しないと。

そしてきちんとインバウンド対応する。

うちの博物館も安い。

200円でイルカ触れるとこないと思うよ。

しかし、冷たいけど気持ちいいよね(笑)


陽光美術館
日本庭園の中、浮殿のように池中に浮かぶ美術館。
日中文化交流の懸け橋になることを願い、日本磁器発祥の地である佐賀において、そのル
ーツである中国陶磁器を展示しています。
ゆったりとした時間が流れる、文化・芸術のひとときをお楽しみください。

沿革
平成8年9月
佐賀県武雄市に財団法人陽光美術館を設立

平成25年10月
公益財団法人へ移行

平成25年11月
静岡県伊東市に中国当代髄一の水墨画家「崔如琢」氏の作品を展示する「崔如琢美術館」
を開館

平成26年10月
佐賀県教育委員会より登録博物館として認可を受ける



日本庭園 慧洲園
慧洲園は「昭和の小堀遠州」と称された中根金作※1によって作庭された池泉回遊式日本
庭園※2です。
中世を思わせるダイナミックな石組みから流れる瀑布と茶畑が印象的に配され、武雄を象
徴する美しい借景※3に見事に調和しています。
この調和こそ中根金作が作庭において最もこだわりを持ったところで、慧洲園の見どころ
の一つと言えるでしょう。四季折々の風情を感じながら散策をお楽しみ頂けます。

中根金作氏の主な作庭
足立美術館(島根県)昭和47年
慧洲園(佐賀県)昭和54年-55年
大濠公園日本庭園(福岡県)昭和59年
カーター元大統領記念館(アメリカ)昭和61年
ボストン美術館日本庭園(アメリカ)昭和63年 他

※1
中根金作(1917-1995)
大正6年8月、静岡県磐田市に生まれる。
旧東京高等学校(現東京農業大学造園学科)を卒業以来、京都の古庭園調査研究及び修復
活動を行い、国内外合わせて200余りにのぼる名園を作庭。
大阪芸術大学学長を務めた。

※2
池泉回遊式日本庭園
池とその周辺にめぐらせた園路を散策できるタイプの庭。
日本庭園の一様式。

※3
借景
庭園外の風景を背景として取り入れたもの。
造園技法の一つ。

基本情報
所在地:〒843-0022 佐賀県武雄市武雄町大字武雄4075-3
電話:0954-20-1187


【Official site】





【横山大観展】

横山大観
横山 大観(よこやま たいかん、正字体:大觀、1868年11月2日(明治元年9月18日) - 1958年(昭和33年)2月26日)は、日本の美術家、日本画家。常陸国水戸(現在の茨城県水戸市下市)出身。近代日本画壇の巨匠であり、今日「朦朧体(もうろうたい)」と呼ばれる、線描を抑えた独特の没線描法を確立した。帝国美術院会員。第1回文化勲章受章。死後、正三位勲一等旭日大綬章を追贈された。茨城県名誉県民。東京都台東区名誉区民。本名、横山 秀麿(よこやま ひでまろ)。

経歴
1868年(明治元年)、水戸藩士・酒井捨彦の長男として生まれる。府立一中、および私立の東京英語学校の学齢時代から絵画に興味を抱き、洋画家・渡辺文三郎に鉛筆画を学ぶ。1888年(明治21年)、母方の縁戚である横山家の養子となる。東京美術学校を受験することに決めると急遽、結城正明、狩野芳崖などに教えを受ける(その期間は2、3か月程度だったと言われる)。また、受験の際は受験者数300人中、 200人が鉛筆画での受験をし、しかも彼らは有名な師に何年も教わってきたと聞くや、試験の直前に鉛筆画から毛筆画への試験の変更を申請。見事に東京美術学校へと合格した。1889年(明治22年)、東京美術学校に第1期生として入学。岡倉天心、橋本雅邦らに学ぶ。同期生には菱田春草、下村観山、西郷孤月などがいる。

美術学校を卒業後、京都に移って仏画の研究を始め、同時に京都市立美術工芸学校予備科教員となった。またこの頃より雅号「大観」を使い始めるようになった。1896年(明治29年)、同職を辞すと、母校・東京美術学校の助教授に就任した。しかし2年後に当時校長だった岡倉天心への排斥運動が起こり、天心が失脚。天心を師と仰ぐ大観はこれに従って助教授職を辞し、同年の日本美術院創設に参加した。

美術院の活動の中で、大観は春草と共に西洋画の画法を取り入れた新たな画風の研究を重ね、やがて線描を大胆に抑えた没線描法の絵画を次々に発表する。しかしその先進的な画風は当時の画壇の守旧派から猛烈な批判を浴びた。現在ではその画風を的確に表す言葉とされる「朦朧体」という呼称も、当初は「勢いに欠ける、曖昧でぼんやりとした画風」という意味で、批判的に使用された言葉であった。保守的風潮の強い国内での活動が行き詰まりを見せ始めたため、大観は春草と共に海外に渡った。インドのカルカッタや、アメリカのニューヨーク、ボストンで相次いで展覧会を開き、高い評価を得た。その後ヨーロッパに渡り、ロンドン、ベルリン、パリでも展覧会を開き、ここでも高い評価を受ける。この欧米での高評価を受けて、日本国内でもその画風が評価され始めた。1907年(明治40年)には、この年より始まった文部省美術展覧会(文展)の審査員に就任。1913年(大正2年)には、守旧派に押されて活動が途絶えていた日本美術院の再興に至った。

代表作
『秩父霊峰春暁』
『無我』1897年 東京国立博物館蔵
『屈原』1898年 厳島神社蔵
『流燈』1909年 茨城県近代美術館蔵
『蕭湘八景』1912年 東京国立博物館蔵 ※重要文化財
『生々流転』1923年 東京国立近代美術館蔵 ※重要文化財
『夜桜』1929年 大倉集古館蔵
『大楠公』1938年 湊川神社蔵
『或る日の太平洋』1952年 東京国立近代美術館蔵

以後、大観は日本画壇の重鎮として確固たる地位を築き、1934年(昭和9年)に朝日文化賞受賞。1935年(昭和10年)には帝国美術院会員となった。1937年(昭和12年)には、この年制定された第1回文化勲章の受章者となった。同年、帝国芸術院会員となる。

戦後の1951年(昭和26年)に日本美術院会員を辞任、同年に文化功労者となった。大観は1958年(昭和33年)2月26日、東京都台東区にある自宅にて89歳で永眠した。大観の永年に渡る日本美術発展への貢献により正三位に叙せられ、勲一等旭日大綬章を贈られた。なお、大観の脳は現在もアルコール漬けにされた状態で、東京大学医学部に保管されている。

エピソード
大観は大変な酒好きとして知られ、人生後半の50年は飯をほとんど口にせず(たまに食べる時も一粒二粒と数えるほど)、酒と肴(少量の野菜)だけで済ませていたという。飲んでいた酒は広島の「醉心」で、これは昭和初期に醉心山根本店の社長・山根薫と知り合った大観が互いに意気投合し、「一生の飲み分を約束」した山根より無償で大観に送られていたものだった。しかし山根は年に四斗樽で何本も注文が来るので驚いたという。代金のかわりとして大観は毎年1枚ずつ自分の絵を無償で送り、結果、醉心酒造に大観の記念館ができることとなった。もっとも、最初から酒好きだったわけではない。若い頃は猪口2 - 3杯で真っ赤になってしまう下戸だった。しかし大観の師の天心は日に2升ともいわれる酒豪であり、「酒の一升くらい飲めずにどうする」と大観を叱咤したため、飲んでは吐きながら訓練した結果であった。なお1955年(昭和30年)頃までは毎日約1升もの酒を飲んでいたものの、晩年は酒量も減り、1957年(昭和32年)頃になると1日に4合飲むのがやっとだったという。最晩年の1958年(昭和33年)になると1日に5勺(1合の半分)しか酒を飲めなくなっていた。鯨飲はしていたもののアルコール中毒にはならず、大病もせずに90年近い寿命を全うした。
東京美術学校の同期生である菱田春草とは無二の親友で常に行動を共にし、『春の朝・秋の夕』『帰路、入船』などを合作している。1911年(明治44年)に春草が36歳で夭折すると大観は大いに嘆いた。菱田春草追悼展の開催を主導し、自らも『五柳先生』(東京国立博物館蔵)を出品した。晩年に至るまで、自らが日本画の巨匠と称されるたびに「あいつ(春草)が生きていたら俺なんかよりずっと巧い」と口にしていたという。
熱烈な勤王派であった父・捨彦、思想家としても著名であり国粋主義者とも称された師・天心の影響を色濃く受けた大観は、自身も国粋主義的な面を持っていた。日本の象徴である勇美な富士山を好んで題材としたほか、皇室にも絵を度々献上していた。また、支那事変・太平洋戦争(大東亜戦争)当時の日本では、銃後の個人や団体が陸海軍に対して兵器生産費用分を寄付する運動が盛んに行われていた(対象は主に戦闘機や爆撃機など軍用機が多く、これらは愛国機・報国機と称されていた)。大観も自らが売却した絵の代金を帝国陸軍に寄付し、九七式重爆撃機の「愛國445(大観)」号などを献納している。終戦後にはGHQより戦犯容疑者として取り調べを受けた事もあった。
大観のタッチは独特ながら一見、模倣しやすいと考えられ、戦前の一時期、大観を騙り地方の素封家の食客となって渡り歩く無名画家が多数現れた。この時、彼らによって描かれた作品が数多く現存している。地方名士の子孫には、真筆と信じて所蔵している者も多い。これらの模倣作ないし贋作を指して、揶揄的に「田舎大観」と呼ぶことがある。これらも含めて贋作が非常に多い画家としても知られ、鑑定の結果、真筆と判定された作品には「大観番号」という番号をつけて保護されている。
没線画法は、天心に「空気を描く工夫はないか」と問われ、春草らとともに考え出したもの。
歌手の笠置シヅ子が好きだったと言われ、「東京ブギウギ」や「買物ブギー」のレコードを愛聴していた。大観が80代の頃であった。
弟子の一人である渡邉包夫は、テレビ東京のバラエティー番組『開運!なんでも鑑定団』の鑑定士軍団の一員であった。
1908年制作と見られる『白衣観音』は、1912年刊行の『大観画集』掲載後に所在不明となっていたが、2017年10月に東京国立近代美術館が、約100年ぶりに発見したと発表した[2]。同館と京都国立近代美術館で2018年に開催の「生誕150年 横山大観展」で公開される予定である。

略歴
1868年(明治元年):誕生(異説あり)。父は、水戸藩士として「水戸学」の尊皇攘夷思想により志士として活躍。大観の皇室への忠誠はここに発するものとも言われる。初名は、酒井秀麿。
1878年(明治11年):一家で上京。
1881年(明治14年):東京府中学(現在の都立日比谷高校)に入学。優秀な成績で卒業するが、諸事情により「東大予備門試験」では入学資格を消失。致し方なく、当時は進学予備校として知られていた私立の東京英語学校(現在の日本学園高校)に入学。受験英語に勤しみ、その後の大観の海外での生活で大きな力を発揮する。
1883年(明治16年):絵画に興味をいだいた大観は、渡辺文三郎という画家に師事した。その後、狩野派の指導を得た。狩野芳崖にも影響される。当時の日本画家は貧乏で、副業により生活していた。このため父は、画家よりは東大進学を切望していた。
1888年(明治21年):東京美術学校を受験。横山家との養子縁組により、酒井秀麿から横山秀麿となった。
1889年(明治22年):東京美術学校1期生として入学。父は画家になることに大反対。卒業するまで書籍の図版を模写するアルバイトで生活費と学費を得た。
1893年(明治26年):東京美術学校卒業。その後は、京都で修養。古画の模写の仕事に励む。
1895年(明治28年):京都市立美術工芸学校(現在の京都市立芸術大学)教諭。この京都修行時代と推定されるが、雅号を「大観」とす。大観とはあらゆる大局的な観点から世界を見るという意味の法華経の経文からとったという説もある。
1896年(明治29年):東京美術学校助教授に就任する。
1897年(明治30年):滝沢文子と結婚。
1898年(明治31年):岡倉天心が東京美術学校々長を辞任、大観や橋本雅邦ら14人も続いて辞職した。その後、天心は日本美術院を設立。そして下村観山、寺崎広業、菱田春草、木村武山らがこれに従って、私財を投入して設立運営に奔走する。
1899年(明治32年):長女誕生。
1903年(明治36年):妻・文子死去。インドを訪問し、釈迦の実像を描こうとした。天心の勧めるものであったが、天心は日本画の原点をインドと考えたのではないかという説もある。
1904年(明治37年):天心の勧めでニューヨーク。へ
1905年(明治38年):ロンドンへ。長女死去のため帰国。
1906年(明治39年):遠藤直子と再婚。天心が住んでいた茨城県の五浦へ転居。五浦での活動、つまり「日本美術院絵画部」は、天心、大観、春草、観山、武山の5名。
1907年(明治40年):父死去。国が主催となって、官営の「文展」(文部省美術展覧会)が開催され、大観と観山は文展の審査員を務める。
1910年(明治43年):中国へ出発。ロバを買って帰る。第4回文展。審査員。作品『楚水の巻』。地球に接近したハレー彗星を題材に水墨画『彗星』を描く。
1912年(明治45年):第6回文展。
1913年(大正2年):妻・直子死去。第7回文展で、最後の審査員。作品『松並木』。9月に天心が逝去し、門人代表として弔辞を読んだ。
1926年(昭和元年):福井県越前市旧大滝村に滞在した折、岩野平三郎製紙所にて当時世界最大といわれた5.4m四方の岡大紙(おかふとかみ)を漉いた。
1928年(昭和3年):イタリアの最高指導者ベニート・ムッソリーニに『立葵』が献呈された。
1931年(昭和6年)6月30日:帝室技芸員
1938年(昭和13年):ドイツ総統アドルフ・ヒトラーに献呈するため作品『旭日霊峰』を完成させる。
1958年(昭和33年):死去。
1976年(昭和51年):自宅が横山大観記念館として公開。


 
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